(株) 十字屋

(宮城県塩竈市)

下舘達也社長

(株)十字屋は昭和23年、宮城・塩竈の地に創業。塩竈築港大通り十字路角に海産物店を開業し、開業場所が社名の由来となっています。仙台湾で獲れる宮城県三陸ならではの海の恵みを、伝統の技で商品にしています。素材の持ち味を生かすことだけを考え、発酵させたり、燻製にしたり、日本の伝統の食文化が少なくなっている現代、その方法を活かしつつおいしいものを作っています。

アーカイブ 復興への取り組み

*日本名門酒会内の会報誌・案内文書の記事より(2014.12)

震災から2ヶ月後、一部商品の出荷再開

(株)十字屋は、東日本大震災により本店店舗・本社工場及び原料養殖漁場が被災し、甚大な被害を受けました。しかし、その2ヶ月後の5月末には、一部商品の出荷を再開。日本名門酒会でも、4アイテム(牡蠣の燻製、焼きかき風かき、寒のり佃煮、無添加いかの塩辛)を加盟店の皆様にご案内し、たくさんのご注文をいただきました。以下は、その出荷再開時に、(株)十字屋 下舘社長からいただいたメッセージです。

「3月11日の地震・津波で本店店舗でダメージを受け、さらに4月7日の余震で工場でも被害がありました。幸いにも人的被害は無く、水・電気・電話の復旧を待って工場再開致しました。原材料手当等々不安材料も多々ございますが、一同力を合わせ精一杯努力して参りますので何卒宜しくお願い致します」

「ホヤ」加工品元祖のプライドと恩返し

全国の9割近くが三陸で養殖されていたホヤですが、震災により、ホヤに限らず、宮城・岩手の養殖棚のほとんどが流失し壊滅的な被害を受けました。しかし、2014年の夏には、“震災後に養殖された「宮城のホヤ」が水揚げされ始めた”という明るいニュースが地元を盛り上げました。

(株)十字屋では、原料であるホヤの価格が高騰していたため、値上げせざるを得なかった『ほやの塩から』の価格を、2015年の1月より値下げしました。その時に、「成育までは約3~4年の歳月を要するので、三陸の海にホヤが完全復活となるまでにはもうしばらく時間がかかりますが、ホヤ加工品の元祖十字屋としては、なんとか“三陸産ホヤ復活”に弾みをつけたいと考え、なるべく震災前の価格に近付けようと、今回値下げを決めました」と下舘社長からお手紙をいただきました。

原料価格が安定したわけではなく、元祖のプライドと皆様への恩返し、三陸のホヤ復活への道筋になればという思いからの値下げでした。

10年をふりかえって

(株)十字屋 下舘達也社長

2011年3月11日、私にとってはつい先日の様な、或いは遠い昔の出来事の様な不思議な感覚に陥る、忘れがたい一日です。「嘘だろう、冗談だろう」と思えるような経験したことのない、激しくそして永遠に終わらないと思える程の長時間の揺れ、しかしそれは巨大な津波の序章でしかありませんでした。

小社、十字屋の主原料でもあり三陸宮城を代表する海産物「ホヤ」のことを軸に、思い返してみたいと思います。

会社再開までの一ヶ月、無事だった1年分の原料ホヤ

2011年3月11日17時40分JR仙石線本塩竈駅周辺の様子

殻付きホヤを剥いた可食部分/身の歩留まり率は20%未満です。殻付きホヤ200gでは身の部分が凡そ40g、『元祖ほやの塩から』は110g入りですから1瓶換算では3個弱になりましょうか。あの当時、我々には約1年分以上の原料ホヤがあり、塩竈魚市場近くに在る冷凍庫に保管を委託しておりました(奇跡的に冷凍庫の被害は軽微で済みました)。

震災から数日後 十字屋近隣の様子

それらのこと(在庫等々)に気がいくようになったのは、1週間後ぐらいでしょうか。安否確認ができない社員のこと、漁業者/生産者、工場内被害の確認、仙台市内の店舗の状況、ありとあらゆる事態の把握、やはり安否確認が最優先でした(幸い人的被害はございませんでした)。震災の翌日、出社してきた社員には「自分たちの生活を優先に」と電力や水道が戻るまで会社はクローズすると伝え、帰した記憶があります。

それからひと月近くの停電/断水を経て、会社を再開するに至りましたが、震災前の日常を取り戻すことは容易ではありませんでした。

全滅した仙台湾のホヤ、奇跡的に見つかった桂島の種ボヤ

ホヤの旬は初夏です。3年の成育を経て数ヶ月後に収穫を迎えるはずだった「ホヤ」は全滅、全ての宮城の養殖ホヤを失いました。身動きは取れず、日々の暮らしがやっとの毎日でしたが、その後、県当局やご縁を頼りに辿り着いたのが、比較的津波被害の少なかった青森県陸奥湾です。そこには以前から宮城の種ホヤが入っておりました。

水揚げから脱殻/処理そして冷凍、その工程にはスピード感が求められ、その作業ができる工場が必要です。本当に有難いことに、願ってもない様な設備とスキルを持った、陸奥湾の傍にある企業様に、その作業を引き受けていただきました。

震災後の離島桂島の様子。この島で奇跡的に種ボヤの無事が確認されました。

その後、地元塩竈の離島・桂島の陸上で奇跡的に種(タネ)ボヤの無事が確認され、今現在の宮城のホヤの親はその種だと言われております。

いずれにしても数年間は地元での水揚げは不可能で、ホヤの争奪戦的な事態も起きましたので、価格的には震災前とは全く比較にならないという現実が数年間続いたのであります。

未来に向けて豊かな海を取り戻す努力を

昭和28年1953年創製、日本初のホヤの加工品『元祖ほやの塩から』は素材の持ち味を生かし、手間暇かけて製造しております。宮城のホヤが戻るまでは、限られた原料在庫で、価格は極力抑えて、限定販売/限定出荷を余儀なくされました。

大震災以前から、浅海/近海漁業での各種魚種の不漁や不足状況が続いており、震災後はさらに一層拍車がかかってきている感があります。やはりキーワードは「地球温暖化」であり、ここ数年の異常気象被害の甚大さは今まで類を見ない事態で、地球全体の問題でしょう。さらには、昨年始めからの新型コロナウイルス禍の終息には、全人類の英知を持って臨むべきと思います。

大震災後、様変わりしたのは水揚げする浜から人の姿が極端に減ったことかもしれません。毎年3.11を迎える毎に報道等での特集があり、「3.11には一人一人にそれぞれ物語がある」と言われ、様々に復興へ立ち向かう人の姿が紹介されています。一次産業の衰退は大震災後に特に顕著になりましたが、これはもう致し方ないことかもしれません。

未来に向かって、豊かな海を取り戻す努力を続けたいものです。

2021.01